読書散歩 #75

読書散歩 第75回
高橋源一郎さんと鷲田清一さん
―新聞の連載がきっかけで

新聞の連載の中で好きなものの一つが、
鷲田清一さんの「汀にて」です。
鷲田清一さんは第7回で「待つということ」を紹介しました。
機会があれば他の本も読んでみようと思っていました。

新聞で鷲田清一さんの「顔の現象学」が紹介されていました。
「読んじゃいなよ!」も新聞のインターネット版で紹介されていました。
また、高橋源一郎さんには、以前に兵庫県播磨高等学校で
講演をしていただいたことがあります。

高橋源一郎さんが大学のゼミで鷲田清一さんを呼ばれて
学生と話をされたことを知り、今回の2冊を読むことにしました。

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読んじゃいなよ!
明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ

高橋源一郎 岩波新書

高橋源一郎さんに講演していただく前に
小説を読みましたがよくわからず、
お会いした時に「よくわかりませんでした。」と感想を言いました。
その時のお答えが、「それでいいんです。」でした。

直接お話をしたこともあり、高橋源一郎さんが
明治学院大学でどのような講義をされているのか興味津々でした。
また、学生時代に
岩波新書を1日1冊という目標を立てたこともあり、
どのような本を大学生が読み、
高橋源一郎さんが指定されたのかも興味がありました。

最初に鷲田清一さんを呼んでの講義が
書かれているということもあり購入しました。

鷲田清一さんの「汀にて」というコラムが
非常に分かりやすく面白いもので、
読書欄で紹介された「顔の現象学」を買って読み始めたのですが、
この本は全く分からず、途中で挫折していました。
ということもあり、鷲田清一さんが
何をどのように話されたのかにも興味があったからです。

鷲田さんは学生の「分からない。」という言葉に
「二割分かればいい。」と答えられています。
それはそうかもしれませんが、
「じゃあ、何のために本にしているの?」と突っ込みたくなりました。

この本は、一度読んで、すぐにまた、
鷲田清一さんの部分だけもう一度読みました。
こんなことをしたのは初めてです。
何年かして改めて読み返したことはありますが、
すぐに読み返したことは今までありませんでした。

もう一度「顔の現象学」にチャレンジしてみようという
気持ちになりました。

鷲田清一さんに続き、
長谷部恭男さん、伊藤比呂美さんの
3人の講義が中心になっています。
「ほう。なるほど。」と思ってしまうところがたくさんありました。
なかなか面白い方々を3人選んでおられると
感心しながら読みました。

また、改めて読み返すことがありそうな本です。



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顔の現象学 見られることの権利
鷲田清一 講談社学術文庫

繰り返しになりますが、この本を手に取ったのは
「汀にて」がきっかけでした。
「汀にて」も「『待つ』ということ」もすんなりと読めていたので、
「鷲田清一さんの本はわかりやすいんだ。」と思い込んでいました。
それが大きな間違いでした。

「読んじゃいなよ!」でも書きましたが、挫折しました。
しかし、「挫折したままでは・・・。」と思い、
また、「二割分かればいい。」との
言葉に励まされ読み始めました。
二割も分かりませんでした。
しかし、「学術文庫版まえがき」は、
性根を入れて読んでみました。

少し長くなりますが、一部を引用してみます。

 テレビ番組やコマーシャル写真などの
 メディアを流通するあの<像>や
 記号としての顔の過剰のなかでは、
 そういう、わたしを包む声のような<顔>、
 わたしに突き刺さる棘のような<顔>がすり減ってしまっている。
 そういうぺらぺらの顔の経験の反復のなかで、
 特異なもの、個的なものとしての
 このわたしに対する呼びかけとしての<顔>が
 漂白されてしまっている。像としての顔の過剰が、
 呼びかけとしての<顔>を過少にしているのだ。
 そういうじれったさが、<顔>への渇きとなって、
 いまいろんな場所で現れているようにおもう。

このことを思いながら読み進めました。

いろいろと「顔」に関する文献の引用と
鷲田さんの考えが書かれていました。
顔の可視性のグラデーションとおはぐろ(鉄漿)の所では、
なかなかおもしろい捉え方と感心して読みました。

一度読んでみませんか? 税別価格840円です。

読書散歩 #74

読書散歩 第74回
無私の人と美しい日本語

兵庫県播磨高等学校は、
「形から入って心を育てる」教育を推進し、
「誠実 敬愛 礼節」と
日本人が長い間、大切にしてきた心を校訓に掲げています。

今回は、人のために尽くした「無私の日本人」を紹介した本と、
美しい日本語を話すための助数詞についてのエピソードを
まとめた本を紹介します。


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無私の日本人
磯田道史 文春文庫

この本は、鳥取のYさんが
平成28年12月15日に来られた時にいただいた本です。
この本には、穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月の
3人が紹介されています。

Yさんは以前から中根東里に興味を持っておられ、
岩崎東里先生と名前が同じということで紹介いただきました。

その時に鳥取で手に入れられた
中根東里の「新瓦(しんいとまき)」のコピーもいただきました。

紹介されている3人は、
兵庫県播磨高等学校の校訓「誠実 敬愛 礼節」を
江戸時代に自ら実行された方々のように感じています

中根東里はご存知の方もあるかとは思いますが、
江戸時代に活躍した中国語も話せる
陽明学者として有名ですが、
自らの著作は焼却してしまったため、資料の少ない人物です。
「新瓦」も東里が弟の子を育てることになり、
その子にいろいろと教えるために残したものです。

この中根東里をはじめ「無私の日本人」に
取り上げられている3人の人物は素晴らしい人物です。

あとがきには、磯田道史さんが書かれた
「武士の家計簿」を読まれた、
仙台近くの吉岡に住んでおられる方からの
「是非後世に伝えてほしい」という手紙が
きっかけになったことを書かれています。
調べるにあたって古文書を読んでいて
泣いたとも書かれています。

村の存亡の危機に対し、
穀田屋十三郎と村の8人の篤志家が
自らの財産をはたいて仙台藩に千両という金を貸して
その利息で村の運営費を賄うという、
当時としてはとんでもない計画を立てて実行します。
のことを自慢するではなく、子孫には
「今後一切、このことを絶対に語ってはならない。」
と言い残し、今も吉岡でその話を聞くことはないそうです。

中根東里は、荻生徂徠との師弟関係も断ち切り、
表に出ない生活を続けます。
「新瓦」に出てくる話も書かれています。
栃木県佐野市の佐野市郷土博物館に
中根東里の残した「学則」の版木があることを知り、
佐野市教育委員会に問い合わせをし、
「学則」の書き下し文を頂戴することも出来ました。

大田垣蓮月はよく知られた文人ですが、
人のことを思う生き方は
なかなかできないことと思いながら読んでいきました。

自分中心、経済中心の世の中ですが、
この3人のように「清らかすぎる人々」の生き方や考え方は
読んでいてさわやかな気持ちになりました。

これからの日本を背負う若い方々に、
一度この本を読んで、人と人のかかわりの大切さを
考えてほしいと思っています。



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日本の助数詞に親しむ-数える言葉の奥深さ-
飯田朝子 東方出版

助数詞の本は
第27回の「数え方でみがく日本語」で紹介しました。
この本を読むきっかけは、新聞の広告欄に
「魚は水中では匹と数えますが、
水から上げられると尾(び)になります。
そんな日本語が豊かになるエピソードが満載」
と書かれていたからです。早速書店で購入しました。
表紙も文中にも、カラーの楽しい絵が満載です。
もちろん本文も読みやすく、一つ一つの話に区切りがあり、
通勤途中でも楽しく読むことができました。

「数え方は昔ながらのものを守って、
 それをずっと使い続けるのが正しい」
という考えではなく、長い日本語のあゆみの中で、
先人たちは新しいものに触れるたび、
そして新しい概念に出会うたび、
それらに適した数え方を必要としました。

先ほど新聞広告で紹介されていた魚の欄でも、
スーパーマーケットでトレイに入って売られている魚類は
総じて「一パック」と数えることが紹介されています。

ときどき「助数詞まめ知識」というコラムがあります。
その一つに「奈良漬を演出する粋な助数詞」に
奈良漬けの数え方が書かれています。
材料のウリは形に応じて「一個」や「一本」と数えますが、
奈良漬はウリを縦に半分に切って漬けます。
その形が舟に似ていることから、
できあがった奈良漬は
「ひと舟、ふた舟」と数えると紹介されています。

後ろに索引が出ていますが、使いやすく、
辞典のような使い方ができ、
この本の魅力を高めているように思います。
社会に出たときに美しい日本語が話せるように、
ぜひ一度は読んでほしいと思います。

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プロフィール

兵庫県播磨高等学校

Author:兵庫県播磨高等学校
2021年に創立百周年を迎える兵庫県播磨高等学校です。
「読書の学校づくり」を推進中です。

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